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フランク・キャプラFrank Capra 1897年イタリアのシチリー島で生まれ、6歳でカリフォルニアに移住。1923年にサンフランシスコの映画会社で短編映画の監督をしたのがデヴュー。その後、マック・セネットとハル・ローチのスタジオで喜劇の構成、監督を任されるが、1928年にコロムビア映画に移ってからの10年が彼の才能が花開いた期間である。脚本家のロバート・リスキンとのコンビで数多くの名作を送り出した。第二次大戦では陸軍の宣伝映画やドキュメンタリーの演出を、戦後はテレビの長時間の科学番組も手掛けた。1935年から39年までアカデミー会長をつとめる。「我が家の楽園」「或る夜の出来事」もビデオ発売中。
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ジョン・フォードJohn Ford 高校を卒業後、ユニバーサル映画で監督券俳優として活躍していた兄のフランシスを頼って映画界入り。22歳で監督になり、主にハリー・ケリーの西部劇で地盤を固め、「アイアン・ホース」の成功で高い評価を得るが本格的に西部劇に取り組んだのは戦後である。一方、社会派とも言える佳作も数多く発表。両親の出身地アイルランドへ熱い思いを寄せ、いわゆる”フォード一家”はアイルランド系で固められていた。思想的には純粋なナショナリストであり、真珠湾攻撃を素材にした短編でアカデミー賞記録映画賞を受賞したほか、4度の監督賞を受賞している。「モホークの太鼓」もビデオ発売中。 |
ハワード・ホークスHoward Hawks 大学生時代にオートレーサーとして活躍したほか、第一次大戦中は航空教師として勤務したように、闘う男を軸にした男性アクション映画でで本領を発揮。キャロル・ロンバード、ローレン・バコール、マリリン・モンローなどの女優を育てあげた名匠でもあった。製作者としても名作を残しているが、彼の真価が認められるようになったのは1960年代に入ってからである。1999年には我が国でもフィルムセンターで”ハワード・ホークス映画祭”が開催された。ノーベル賞受賞作家ウィリアム・フォークナーとの友情が深く、彼はホークスのためにだけ4本の脚本を書いている。「暗黒街」(ヘクトと共に脚本のみ)「ヨーク軍曹」「教授と美女」もビデオ発売中。 |
エルンスト・ルビッチErnst Lubitch 1892年にベルリンに生まれたが、少年時代から俳優を目指してマックス・ラインハルトの劇団で学んだ後、21歳で喜劇俳優として映画界入り。その後、主に脚本家のハンス・クレイリーとのコンビで数々の作品を監督。ポーラ・ネグリを売り出し、エミール・ヤニングスを育てた。ハリウッドに招かれてからは、後年ビリー・ワイルダーに受け継がれた”ルビッチ・タッチ”と称される洒脱なエロティシズムで風俗喜劇に一時代を築いた。トーキーになってからはシネ・オペレッタのジャンルを創造してミュージカルにも貢献。常に手放さなかった葉巻と共にハリウッドに君臨し、パラマウント映画会社の撮影所長を務めていた時期もある。「ニノチカ」もビデオ発売中。
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ルーベン・マムーリアンRouben Mamoulian 1898年ロシア生まれ。モスクワ大学を卒業後、舞台監督になり1920年に公演でイギリスに渡る。翌年にはアメリカに移ってイーストマン劇場でオペラやオペレッタの演出を手掛けた。ニューヨークのシアター・ギルドを経てブロードウェイで数々のヒット作を出した彼は1929年にパラマウント映画に招かれて映画界入り。舞台の経験を映画製作にあたってすべて捨て去り、豊かな映画的テクニックを駆使して送り出した作品は15本と寡作だが、戦後も主にミュージカルの舞台演出を続けた。「虚栄の市」(1935)で早くもカラー作品を発表するなどトーキー創生期の映画界に多大の貢献をした。「クリスチナ女王」「快傑ゾロ」もビデオ発売中。
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ウィリアム・ワイラーWilliam Wyler 1902年フランス生まれ。18歳でアメリカに渡りユニバーサルの宣伝部に入社。助監督を経て24歳で監督になる。戦後まもなくフランク・キャプラ、ジョージ・スティヴンスと共にリバティ・プロを設立するがすぐに解散。コメディ、社会劇、西部劇、スペクタクルとあらゆるジャンルで一級の作品を提供し続けたオールラウンドプレイヤーと言える。人間ドラマの良識派と称されたように心の葛藤を緻密な演出で表現する名人で、ハリウッドの巨匠中の巨匠だった。アカデミー賞監督賞を3度受賞したほか、12度候補になったのはこの部門の記録である。1965年にはアーヴィング・サルバーグ賞を受賞。「デッド・エンド」「ミニヴァー夫人」「我等の生涯の最良の年」もビデオ発売中。 |
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